清瀬杯とは

最終更新日 2010年8月18日

初代会長清瀬三郎先生について

全日本大学準硬式野球連盟
会 長 井野 智
 1.はじめに 
昭和44年に西日本大学準硬式野球大会と東日本大学準硬式野球大会とが全日本大学選抜準硬式野球大会に統廃合され今日に至っている。 この大会には清瀬三郎初代会長の功績を顕彰するため、大会名に“清瀬杯”の冠を付け、これを正式名称としている。しかし肝心の先生の功績については、例年、主将会議や開会式における会長挨拶で触れられてはいるが、ごく限られた時間での紹介に過ぎず、選手たちに十分に伝わっていないのではないかと危惧してきた。 ここでは、清瀬三郎先生の略歴と当連盟の創設と発展に尽くされた足跡を示し、初代会長への敬意と感謝の念を新たにしたいと思う。
2.清瀬三郎氏略歴
明治35年(1902)1月兵庫県生まれ、東京帝国大学法学部卒、第二次世界大戦の東京裁判被告側弁護団長として有名な清瀬一郎氏の実弟で民事専門の弁護士としての活躍に留まらず、昭和21年日本体育協会理事長に就任し国民体育大会の創設に尽くされた。日本軟式野球連盟、日本ラグビーフットボール協会、日本軟式庭球連盟などの役員を歴任、国家公安委員、東京女子短期大学長も務め、平成元年(1989)12月に逝去された。[1]
3.全日本軟式野球連盟会長が当連盟の会長を兼務
昭和21年全日本軟式野球連盟創立時副会長、同25年会長に就任、日本体育協会への加盟、全国組織の強化、財政基盤の確立、徹底したアマチュアリズムの推進に力を尽くされた。とくに連盟主催の各種大会には天皇杯、常陸宮杯、高松宮杯のご下賜にあわせて、皇族方の大会への臨席をいただくなど大会の権威高揚に意を尽くされた。[2]
当連盟が創立された昭和26年(1951)から22年間は会長、昭和49年(1974)から14年間は名誉会長を務められた。全日本軟式野球連盟会長自らの会長就任は、学生たちの手で立ち上げた連盟にもかかわらず、創立当初から全日本軟式野球連盟の一支部に位置づけられ、全国大会には高松宮様・同妃殿下のご臨席を賜るなどの光栄に浴した。
体育協会理事長・軟式野球連盟会長を会長に頂いたことで、地元関係者の協力が得やすく、9地区学連が持ち回りで主管する現行の全国大会の安定的運営が可能となった。
4.清瀬会長が推進したアマチュアリズム
アマチュアリズムを信望する清瀬会長は、学生スポーツ団体である当連盟の大会運営に対しより厳しい姿勢を貫かれた。たとえば全国大会の閉会式では、優勝旗、優勝杯、優勝メダルの類は一切不要とし、優勝、準優勝両チームの選手全員に大学名・選手名と「旺盛なる闘志と卓越する技術により」という文面が記された表彰状が手渡された。
昭和33年の東日本大学選抜準硬式野球大会で準優勝した北海道大学の選手の一人として清瀬会長から手渡された表彰状は今も大切に保管している。
5.むすび
清瀬三郎先生の文章ではないが、多分先生の考えを最も適切に言い当てていると思われる内村祐之[3]の文章を引用し本稿の結びとしたい。
学業とスポーツの両立に最大の障害となるものは、スポーツによる疲労だと私は思う。疲労は、学業に対する集中力を不可能にする生理的な現象で、如何ともしがたいものである。では、私がどんな方法でこの困難を切り抜けたかと問われれば、それは意志の力によると答えるほかはない。スポーツは、どんなに激しく、また熱心にやっても、自分の人生にとっては余技であり、自分の天職はそれ以外にあるのだというハッキリした自覚がある限り、学業にいそしもうとする意志は確固としているはずだ。私は幸いにも、この自覚と意志に恵まれていたので、辛うじてスポーツと学問を両立させることができたのである。[4]
参考文献
[1]デジタル版日本人名大辞典Plusの解説
[2]全日本大学軟式野球連盟『大学軟式野球三十年史』(1979)
[3]内村祐之は内村鑑三を父とし、精神医学の泰斗として北大と東大の医学部教授の経歴をもち、大正時代の日本野球界をリードした一高野球部のエースで、“ドジャースの戦法”や“タイカップ自伝”などの訳者として、また元プロ野球コミショナーとして有名。
[4]内村祐之『鑑三・野球・精神医学』、日本経済新聞社(1973)
Print Friendly, PDF & Email